館の名称の由来となった雑誌『詩とメルヘン』にゆかりのあるみなさまからいただいたメッセージをご紹介します。温かいメッセージをありがとうございました。
株式会社サンリオライセンス
営業本部
元・「いちご新聞」編集長
高桑秀樹さん
1960年代後半から70年代にかけての時期、詩といえば難解なものが多かったようです。その中でやなせたかしさんの書いた詩はわかりやすく親しみやすい抒情詩でした。詩というものはわかりやすく、読んだ人へ伝わりやすいものであるべきと考えていたサンリオは、やなせさんの詩に感銘をうけ、出版部門をわざわざ立ち上げてやなせさんの詩集を出版することになりました。それが詩集『愛する歌』です。
童謡のような子供でもわかりやすい文体の詩、それを通じてやさしさ、おもいやり、友情の気持ちを子供たちに持ってもらいたい、そういう生き方をする子供たちを育てたい。そんな想いでやなせさんとともに『詩とメルヘン』を作りました。『詩とメルヘン』以外にもやなせさんには、サンリオの機関紙であった『いちご新聞』へ数多くの作品を発表していただいています。
創業初期のサンリオの想いを、ファンに伝えてくれる役割を担ってくれたのがやなせたかしさんだったのです。
- 8/11トークショー開催!
タイの暮らしが長くなり、『詩とメルヘン』は自分だけに見える遠くの星のような存在になっていました。ある時偶然、子育てをするなかで出会った友人が中学時代に愛読者だったことを知り、お気に入りのイラストを転写していたこと、手放しがたい数冊は海外赴任に帯同している間も実家に保管してもらっていたことを聞きました。しかも彼女が中学生だったころと私が編集に携わっていた時期が重なっていることが判明。その瞬間、何十年もの時を飛び超えて『詩とメルヘン』の世界を再び共有したのでした。雑誌は休刊になりましたが、記憶は温もりを失わず誰かの心のなかで生き続けている…私だけに見えていたはずの星がぽぉっと明るくなりました。
『詩とメルヘン』に会いたくなったら訪ねることのできる場所がある。たとえすぐに行くことはかなわなくても、詩とメルヘン絵本館という拠りどころがあることに、星はさらに数等分、輝きを増しています。
詩とメルヘン絵本館開館25周年、おめでとうございます。
- プロフィール
- 福島県生まれ。1981年〜86年、『詩とメルヘン』および関連ムック、詩画集、画集等の編集に携わる。80年代末〜90年代末までの約10年間、ライター・フォトグラファーとしてタイ・ビルマ国境の人々を取材し、『週刊金曜日』『毎日グラフ』『朝日グラフ』『母の友』『SAPIO』などの雑誌に掲載。著書に『フォトジャーナリスト吉田ルイ子』(理論社)、『象使いの少年スッジャイとディオ』(福音館書店)など。編集プロダクションPlant Planet Co.,Ltd.代表。タイ・バンコク在住。
高校生のときに「詩とメルヘン」に出会い、こんな美しい雑誌があるのかと感動した私は、詩を書いて投稿するようになった。そしてやがて、この雑誌を作る側に回りたいと思うようになる。
大学卒業後に上京し、念願かなって「詩とメルヘン」の編集者になった。やなせ先生はシャイでダンディでユーモラスで、ほんの少し寂しげな影をもつ人だった。
この雑誌からは、たくさんの詩人や画家が生まれた。若くて無名で貧乏で、何かになりたいというこころざしを持った人に、先生はやさしかった。きらめく才能よりも一生懸命さを大切にし、「天才であるより、いい人であるほうがずっといい」とおっしゃった。
「詩とメルヘン」には「星屑ひろい」というページがあった。選に洩れた詩を、毎号5~6篇、小さく掲載していた。モノクロの地味なページだったが、一編一編にやなせ先生自身がさし絵をつけた。「小さな活字でも、載るとうれしいでしょ?」と先生。大きく輝く星だけではなく、見過ごされる星屑にも目をとめた。それはそのまま「詩とメルヘン」のスピリットだったと思う。
- プロフィール
- 北海道大学文学部卒業後、やなせたかしが編集長を務めた雑誌『詩とメルヘン』(サンリオ)の編集者となる。のちにノンフィクション作家となり、『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮文庫)で第37回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。同書は米・英・仏など世界8か国で翻訳出版されている。戦争体験者に取材した三部作『昭和二十年夏、僕は兵士だった』『昭和二十年夏、女たちの戦争』『昭和二十年夏、子供たちが見た戦争』(以上、角川文庫)、『百年の手紙 日本人が遺したことば』(岩波新書)、『勇気の花がひらくとき やなせたかしとアンパンマンの物語』(フレーベル館)など著書多数。
- 9/24トークショー開催!
やなせ先生
先生は代表作の「アンパンマン」をはじめたくさんの作品を産みました。
実は、それと同じくらい「詩とメルヘン」を通じて多くの詩人とイラストレーター、画家を産んでいるのです。
若き日の私にとって「詩とメルヘン」は遠くきらめく星にも似て、憧れてもあまりあるものでした。当時、「いちごえほん」に時折イラストを描いていた私は、葉さん、萌さんを始め、多くの気鋭のイラストレーターが描き出す誌面を気が遠くなるような思いで見つめていました。
間もなく「いちごえほん」は休刊となり、ションボリしていた私に「詩とメルヘン」編集部から思いがけない原稿依頼の電話が入った。
「詩とメルヘン」に描いてみませんか?やなせ先生のご指示ですと。
私のつたない絵が「詩とメルヘン」で観るに堪えうるだろうか?喜びと不安の中で必死に描いてみた。仕上がった絵を渡した時の緊張はいまでも記憶にある。
その後、幸いな事に「詩とメルヘン」への寄稿が続き、投稿詩やメルヘンにどんな絵を添えるか、自問自答の自分を探す日々となった。
よちよち歩きの駆出しイラストレーターにとって、大きな舞台での仕事は少しづつ私の足腰を鍛えてくれることになってくれた。
この仕事に入って50年が過ぎ、間借りなりにもやってこれたのは、やなせ先生を始め、こうしたチャンスを与え続けてくれた人たちの助力と感謝しています。
- プロフィール
- 1947年、新潟県新潟市生まれ。新潟大学教育学部美術科卒業。日本児童出版美術家連盟会員。出版社の絵本編集部を経て、フリーのイラストレーターとして独立。絵本・童話のイラストの仕事を中心に活躍する。1976年に初めての絵本『あめってあめ』(矢崎節夫・作)を出版。 代表作に『ごんぎつね』、『手ぶくろを買いに』(新美南吉/作)、『猫の事務所』『水仙月の四日』(宮沢 賢治/作)、「ころわん」シリーズ(間所ひさこ/作)など300冊以上の児童文学や絵本の挿絵を手掛ける。1983年サンリオ美術賞受賞。2023年日本児童文芸家協会児童文化功労賞受賞。2003年、山梨県の清里に「黒井健絵本ハウス」を設立。2010 年より、新潟市立中央図書館こどもとしょかん名誉館長に就任。
(写真 刑部 友康)
小説家・詩人・エッセイスト
小手鞠るいさん(川滝かおりさん)
子どもの頃から「学校」と名の付くものが苦手で嫌いだった私が唯一、愛した学校。それが「詩とメルヘン」だった。編集長のやなせたかし先生は、この学校の「用務員のおじさん」を自称なさっていた。先生との出会いは、14歳のときだった。ある雑誌の懸賞で当たった先生の詩集を読んで「将来は作家になりたい」と、あこがれるようになった。22歳のとき「詩とメルヘン」に初投稿した詩を選んで、掲載してくださったのがやなせ先生であった、という、この奇跡を思うとき、私の胸は今でも14歳の少女のようにふるえる。67歳になった少女は今でも、作品を書き上げて世に送り出すときには、先生から「いい子いい子」と褒められているような気持ちになる。くじけそうになったときにはアンパンマンになり、泣きたくなったときにはやさしいライオンとなって、助けに来て下さるやなせ先生。「詩とメルヘン」は私にとって、永遠に卒業したくない、詩と愛の学校なのである。
- プロフィール
- 1956年岡山県備前市生まれ。同志社大学法学部卒業。京都の書店で買い求めた「詩とメルヘン」に投稿し、初入選を果たして、詩人としてデビューする。本名の川滝かおりで「サンリオ詩とメルヘン賞」を受賞、詩集『愛する人にうたいたい』を上梓する。渡米後「海燕」新人文学賞を受賞。以後、ペンネームの小手鞠るいで、小説を発表。やなせたかし先生との思い出を綴ったエッセイ集として『優しいライオンーーやなせたかし先生からの贈り物』(講談社)がある。児童書、一般文芸ともに、著書多数。ニューヨーク州ウッドストック在住。